http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7426
東京の年降水量はおよそ1400mmで、これは中緯度の先進国の首都としては群を抜いて多い。しかも隆起洪績台地の武蔵野台地とその東に連なる豊島台、本郷台、淀橋台、目黒台、荏原台が分岐し、その間を石神井川、谷田川、小石川、神田川、桜田川、渋谷川(古川)、目黒川、呑川などの中小河川が刻む。
これらの河川の沿岸には、過去に起きた水害の痕跡を止める地名がいくつもある。代表的な地名を紹介していきたい。
●江古田
台地の上を流れる河川は、流れは緩やかだが、その分だけ水はけが悪く、しばしば溢水する。中野区江古田一~四丁目は神田川支流の妙正寺川・中新井川が沼袋台を挟んで並流する。かつては、溢水により、武蔵野台地本体から沼袋台を切り離したもの。
この江古田という地名については、エゴノキ科の植生に由来とする説が根強いが、エゴノキは果皮にエゴサポニンを含み、古来、洗剤として利用されてきた。エゴサポニンはアルカロイドの一種で、口に入ると喉を抉(えぐ)るような苦みがある。方言エゴは各地で、「山の窪地」とか「水で抉られた川岸」、「川の流れが淀んだ所」、「入江」などの用例がある。
妙正寺川は近年、溢水した記録はないが、集中豪雨があれば、いつでも溢水する可能性がありうる。
●滝野川
隅田川の支流・石神井川は小平市の湧水を水源とし、西東京市、練馬区、板橋区を経て北区まで延々25kmを流れ、北区滝野川でおよそ20m落下し荒川低地に流れ出る。この付近で石神井川は「音無川」とも「滝野川」とも呼ばれるが、音無とは「音を成す」意であり、滝野川とは文字通り「滝のように流れる川」のことである。
北区豊島5丁目付近で隅田川は約1・5km東に大きく湾曲するが、この突出部は江戸時代、川船の水(か)主(こ)らから「天狗の鼻」と呼ばれていた。石神井川に運ばれた土砂が低地に運ばれて堆積したものである。古代以来の武蔵国豊島郡豊島郷の名は、この突出部をト(尖)シマ(砂州)と呼んだ郡・郷名にほかならない。
石神井川の集水面積・流路は地質時代と基本的に変わりはないから、今後も増水・溢水、そして滝野川、王子付近で土石流発生の恐れは十分ありうる。
●押上
北区豊島から隅田川の約10km下流の墨田区押上は、スカイツリーが建設されて、東京の新しい観光拠点となった。江戸開府以前、隅田川が二手に分流していたと思われ、上流から運ばれた土砂が押し上げられた地点だったかと思われる。あるいは、東京湾を襲った津波が、ここまで押し上げられた可能性もありうる。
埼玉県行田市に同じ「押上町」があるが、これは昭和50年(1975年)に設定された新町名で江戸時代の小名「押出」から採ったもの。映画「のぼうの城」で石田三成の水責めが描かれた忍(おし)城自体、乱流していた利根川と荒川に運ばれた土砂が堆積した小平地に築かれた(荒川は寛永6年、1629年の瀬替え工事まで、熊谷扇状地を東流しており、今に残る元荒川の名はその名残である)。
●三田
平安前期編纂の『和名抄』国郡郷部には武蔵国荏原(えばら)郡御田郷の名が載るが、現在の港区三田か、目黒区三田のいずれかであろう。各地の古代地名の例からみて、この「御田」は水田のことであろう。
中世以来、芝浦は江戸前(東京湾)の重要な漁港であり、シバエビの名はその地名から出たものという。室町期の「長録江戸図」では高輪の北に二つの島を描き、江戸初期の「慶長図」は古川(渋谷川の下流、新堀川とも)の下流が三角州となって二手に分かれて海に注ぐ。
つまり、港区三田はその三角州の一画で、江戸期には大小の大名家の藩邸(上屋敷・中屋敷・下屋敷)に取り込まれ、南側分流はわずかに入間(いりあい)川などの運河に姿を止めるにすぎなかった。いずれにせよ、「水田」と呼ばれてしかるべき地である。
一方、目黒区の三田は、目黒川左岸の地。目黒川は「巡(めぐ)る川」の意だから、曲流を繰り返してどこで溢水してもおかしくない。現に目黒川は数年に一度、十数年に一度の頻度で氾濫している。
●蛇崩(じゃくずれ)川
世田谷区弦巻から上馬・三軒茶屋・下馬を経て目黒区上目黒で目黒川に注ぐ。ほとんどが暗渠化されて遊歩道になっているが、数年、十数年の頻度で溢水している。
この河川名について、「蛇が大暴れして河岸が崩れたようだから」などと説明する向きが多いが、「蛇」の文字は当て字にすぎない。
子犬がふざけていることを「じゃれ合っている」といい、登山家は堅く締まった岩が砕けて崩れやすい場所をザレ場という。
建築資材の砂利とは、岩や石を細かくバラバラに砕いたものである。すなわち、ザレ・ジャリとは堅く締まったもの、堅固な常態が崩れた状態をいう。出雲神話のヤマタオロチとは、弥生時代から始まった鉄(かん)穴(な)流しによる山砂鉄の採取で大量の土砂が排出され川が荒れることを象徴たもの。あるいはこの時代からザレ・ジャレという和語と「蛇」の字音を結び付ける意識があったのか。
私の新刊書『地名でわかる水害大国・日本』(祥伝社新書)は、昭和9年(1934年)、郷里・岡山を襲った岡山大水害はじめ、昨年の鬼怒川水害、一昨年の広島土石流災害、昭和49年(1974年)の多摩川宿河原堰決壊水害、昭和57年(1982年)の長崎大水害、平成5年(1993年)の鹿児島大水害のほか、名古屋周辺、神戸市六甲山地南麓などの水害・土石流災害を、地表に刻まれた歴史である地名との関連で考察したものである。
私は幼時から、南北3km、東西2kmの郷里の山野を這いずり回って、自然に学んできた。あらゆる地名は、災害の履歴書である、と確信したが、全国各地の地名も、同じであろう。
たしかに三田は御田が変わったものだが、目黒区三田は港区三田の「御田神社」の領地があったから
江古田に関しては対策済みじゃなかった?
アホか?
凄いの造ってるんだってね
とくにトシマのくだりはひどい
なかでも関東と大阪は湿地帯を埋め立てて造ったとこ多いしなあ。
俺の車が浸かった
俺が住んでる杉並の和泉は、水害にも磐石だなw
おまいらバカにしているけど、政府のウェブサイトにも
地名と災害のまとめがあるぞ。
第一、護岸工事をしなければ河川の流域だってものの百年で大きく変わる
数百年前には目の前が川だったのが今はだいぶ遠いなんてことも珍しくはない
近年は川を塞いで暗渠にしてしまうので
近所に川があるのを知らずに越して来る人が居て被害にあう
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