水道が18日間止まり、水がとにかく手に入らなかったなぁ
近くの農家から井戸水をもらってきてその水で顔を洗い、顔洗い終わった水を再利用し歯を磨きゆすいだら、さらにその水をバケツに貯めておいてトイレを流すのに使った
熊本地震では給水車からもらってきた水を食器洗いやトイレにつかうとか言ってるのを聞いた
余裕あるってのは良いことだなとしみじみ思うよ
あとどうせ物資なんて避難所以外に配ってくれるのは10日以上たってからだし、
近所の人たちで野菜持ち寄って外で火焚いて豚汁とか作ってた。
裸火があぶないとか環境とか知ったこっちゃない。生きるのが先決だ、薪は家が倒壊した瓦礫から調達したし、鍋も流れてきた物だし、
たまに流れ残った真空パックの干物を具にしたり、
一部犯罪かも知れないが、そうやって生きたんだよ。
それは犯罪ではなく緊急避難だ。
あんな生きるか死ぬかの状態で、犯罪なんて言ってるのがおかしいと思ってたよ。壊れた車からガソリン抜いて使える車に入れたっていいじゃない。赤ちゃんのミルクをお店から持っていったっていいじゃない。
本当にそれ。生きるか死ぬかの状態で、犯罪扱いなんてないって思ってた。
あと、ボランティアは受け入れ態勢もないのに、行かないほうがいい。
体育館などの避難所でたくさんのお年寄りが体を横にして寝ている横で
子供達が走ったり飛んだり遊んでドスンドスンと凄い振動で
年寄が可哀想だった。心身共に苦痛そうだった。
しかし親は微笑ましく子供を見ていた。
子供もストレスが溜まっているのは分かるし、親も元気な子供を見てるのは安心だと思う。
しかし避難所内ではダメだ。周りへの気遣いは絶対だ。
もう疲れ切ってヨレヨレに爺さんは昼も休んでいたいんだよ。
避難所では互いの思いやりが大切。
ペットいるから、非難所入れないって外で寝泊まりしてる人いるけど、住みわけすればいいのにって嫁が言ってた。
ウチの嫁が当時、非難した場所はそうだったって。
>>8
ペット同士が干渉しあって騒ぎになるから難しいとか言ってなかったか?
老人と子供問題は、これこそ棲みわけ可能。
>>12
それはイヌ畜生だろ。
散歩ですれちがっただけで、ギャンギャンうぜえイヌはけっこういるが、
猫はそんなことはないよ。
>>8の意見は名案だぜ。
真人間もDQNも創価も会社の上司も池沼も犬・猫・爬虫類も同居というカオスが避難所
毎日ゴミを集めて片付けトイレを掃除し炊き出しの手伝いをする真面目な人が居るかと思えば、
昼間っからどこから調達したのか缶ビールを飲んでゴミは山積みというクズも少なからず居る
一番頭に来たのは、突然ボロセダンで押し掛けたボランティアが駐車場の車にドアパンしまくっていった事
あんま被害状況とか調べてばかりだと気が滅入る。
温かい声援もあるが、心無い書き込みも多い。
ネガティブにならないように動画サイトの面白動画とか観るといい。
大変な状況だからこそ笑うことが大事。
無理にでも笑おう。
風呂にも入れない、トイレも流せないのは精神的にきつかった。
知人は、ガスはプロパンで、電気止まったが、家が井戸水使用で、ポンプが使えず人力で汲んだそうだが、
水は使えたそうだ。
それを聞いて「うらやましい。」と言ったら、
「テレビも見れないし、情報手に入らず、すごく不安だった。」と涙目でキレられた。
被災者同士でも不幸自慢的な話は控えたほうがいいと思う。
ボランティアとかNPOとか現地の被災者からしたら胡散臭い偽善者にしか見えなかった
何かの役に立ちたいって思ってもらうのはいいが親切の押し付けは勘弁
そういや除染に入った作業員に休憩時間に、うちの庭で今朝採れた野菜だって婆さんが出してくれたって話思い出した
あの状況で現金は全く意味をなさなかったからな
震災の時は炊飯器の中から鍋だけ抜いていつものように米を計量して少しの水で研いでから目盛に合わせて水を張ってしばらく浸してからガスで米を炊いていた。炊飯器の鍋は厚みがあるからガスの火に長時間当てていても問題なかったよ
水道と電気はなかなか復旧しないけどガスはすぐ使えたからこのやり方で空腹はしのいでいたよ。水は汲んでこないといけないけど、米を食べると満腹感がやっぱり違う
電気は一週間停電。水道は公団URの浄化槽が破壊されて10日間断水。ガスは復旧するも4月6日の2度目の震災で再びストップ。
関西から仙台市ガスに応援に来てたが順番待ちで結局2ヶ月間ガスストップ。風呂に入れなかった。
懐中電灯も電池も携帯充電器も無く灯油もないので、ホッカイロを体につけて、生協から貰ったろうそくに
チャッカマンで火をつけて厚着して夕方になったらベットの中で月明かりで電池のラジオで生活情報を聞いていた。
郊外の団地の自宅被災者だから、炊き出しも政府援助も無く生協がタダで配ったトイレットペーパー1個と缶詰1個と携帯テッシュを貰っただけ。
毎日食料買出しに行ってた。
小学校で水を配給してたが、朝10時に並んで昼の3時にやっとペットボトル2個の制限付きで貰った。トイレはウォシュレットも使えず風呂の残り水で流した。
吹雪の中を3時間並んでパンやトイレットペーパーやウェットテッシュなどを買った。
生協は品物がないので1人5個までだった。何回も並んで買う人がいた。
まるで北朝鮮か物資不足の旧ソ連みたいだった。ガソリンも灯油もなくとにかく腹が減って寒かった。
お金があっても商品が街にない。停電なので自動販売機から飲み物を取り出せない。
津波で乗り捨てられた車からガソリンを抜き取る悪党がいたが、罰が当たって塩で自分の車がやられて使えなくなった。
ガソリンスタンドで車が長い行列を作って灯油を買ってたが、鍵をかけてトイレや食事しにその場を離れたら、車のタイヤを錐で穴をあけて
パンクさせる外道が出没して皆迷惑した。沿岸部の被災した工場から缶詰やいろいろ被災民が盗んだのは熊本と同じ。
買出しに列に何時間も並んでいたら、割れた窓ガラスから泥棒が入ってパソコンから何から盗まれた人の話を聞いた。
強盗団が跋扈してたらしい。
震災で人心が荒れ、公団の一階に生協から配達してもらった灯油が盗まれ警察に相談に行った。灯油は生協が弁償してくれた。
灯油缶は行方不明。
風呂に入れないのでパーマ屋で洗髪をしてもらったが、2000円を取るボッタくり美容院や、商品を高く売り付けるぼったくり
ドラックストアや食料品があった。
銭湯は整理券を配って友人が手に入れ4時間待ちで数十分入浴してきたが、地下鉄は止まっていてバスも間引き運転で
2時間くらい歩いて帰宅したが風邪を引いたらしい。
皆風呂に入ってないけど普通に仕事に歩いて通勤していた。
3月で雪が降るくらい寒かったので、匂いも感じなかった。熊本の避難所ではノロウイルスが発生して大騒ぎしてるが
そういうことはなかった。
公団URは昭和48年築造だが壁が分厚く頑丈で、都市整備公団が無料で大規模補修をしてそのまま暮せたが
道を挟んだ昭和30~40年築造の市営アパート30棟は、貧弱な作りなので住民は新しい市営に強制移住させられ
危ないのですべて取り壊し広大な更地になってる。古いビルもすべて取り壊し。
病院や調剤薬局やドラックストアや個人商店はすべて撤退して市民生活が不便になった。買い物難民だ。
自分の所は地盤が固いのか激しかったけど揺れ方が震える感じだった
電気は発電機
お風呂は灯油ボイラー
水は井戸水
飯の煮炊きはプロパンガス
一番困ったのはとにかく食料とガソリンが手に入らない事だった
逃げるにもガソリン入手困難な時期だったし、店頭から物がなくなってた
客が来なくなった温泉旅館が避難者を受け入れてたけど、今の熊本は違うね
全壊や半壊で住めなくなった人達は再建にも時間がかかるんだし、仮設もまだなんだから、観光客呼び込む前に旅館借り上げすればいいのにと思う
余震はかなり長く続いたしMも大きかったけど、直下じゃなかったから屋内避難できたってことだけど、梅雨が近いし、本気で県が考えてほしいな
一部損壊だと火災保険は共済分四十万、市から十万
屋根瓦と漆喰壁補修だけで三百万かかった
支援はあてにならないから、自力再建の力をつけるしかない
願わくば再建困難者への救済が十分にあることを
家財は倒れただけで損害は食器類程度だったから申請しなかった
地震保険未加入だしね
なお、火災保険に地震保険を追加する場合、修繕終了済みの証明がないと加入できないというのも被災後に知った
瓦が足りないのと職人不足で、一年半待った
その間、隣人や大工さんに張ってもらってたブルーシートは風雨に耐えられず張り替え数回
それから、怪しげな屋根直し訪問も出没したから、これも要注意です
宮城・白石の友人の家に遊びに行ってた頃。
昼飯も食い終わって、俺、俺の家族、友人の家族の計6人はだらだらしてた。
しかし、大きな家具をあちこちに置いていたため、本震の瞬間一気に倒れ、皿が飛び散った。
酷い地震。しかも外に出たら津波が襲う。友人の家族を避難させた俺は、今すぐ高台へ逃げるため車へ飛び込んだ。
正直、死を覚悟した。怖い。怖すぎてたまらなかった。
大きな家具をあまり置かないこと、すぐに避難する事を大事にした。
でも、俺はもう流石にこういうのは来ないと思って、住んでいる熊本へ…
しかし…白石で経験した5年後…
宮城県白石市 震度6弱
熊本県熊本市中央区 震度6強
合計21972人になり 明治三陸沖地震の死者行方不明者21959人
を超えて日本災害史上 関東大震災に次ぐ2番目の大災害となった
ライフライン復旧まで
携帯 1週間
電気 無害だが体育館の暖房器具が全て灯油だったため、暖を取れない
プロパンガス 2週間
水 3週間
ガソリンスタンド2週間
コンビニ 物が無い状態で営業
スーパー 一週間で一日だけ開いてまた一週間閉まる
清潔なんて気にする余裕もなくて、とにかく食料に困った
大規模災害で肝心なのは避難所だと思う
避難所の格差について書かせてくれ
自治体では災害に備えて避難所を用意している
学校や公民館なんかが多いから、調べておくといい
大事なのは、そこが指定避難所かどうかということ
指定避難所には、物資が優先的に届き自衛隊の風呂が来る
それ以外の避難所は、自治体の混乱が収まるまで放置されるから気をつけろ
満員で入れない時は指定避難所近くに避難しておき、物資だけもらいに行けばいい
一番良いのは被災地を脱出することだけど、道の状況とガソリン次第で危険でもある
携帯のワンセグはバッテリーが心配で
津波の映像も見ていたがその時はピンとこなかった
ラジオを大音量で流しっぱなしにしていた人がいて
周りに人垣が出来ていたね
ラジオは今も持ち歩いている
ガイガーカウンターは当時15万でやっと購入した
今なら3万円で買えるかな
当時はエコテストだのラデックスだの話題になってたが
今なら5千円のエステーの奴だけでも買っといた方がいいよ
子どもがいるならヨウソ剤も用意しておこう
福島では三春町以外配布しなかったがあまり問題にされなかった
薬局が良いがアマゾンでも買える
ANAとJALの会員にもなっておこう
両親を東京へ脱出させるのに福島空港から名古屋空港経由だった
チケットはとにかく暇さえあれば空席を探すしかなかったからね
あんな状況でもタクシーは使えたんだよね
「スマホがあるからラジオとか要らないだろ」とか決して思うな
放送はアンテナから電波を出せば、テレビやラジオのような端末が
1000万台あろうが1億台あろうが、全ての端末が平等に情報を受け取る事が出来る
しかし、radikoは端末1台1台がサーバに接続しに行く為、要求が多すぎるとサーバがダウンする
前々から予想はしていたが、案の定震災直後はradikoは完全に沈黙
「いつもラジオ持ち歩いているのに、何でこんな日に限って忘れたんだ俺のバカ!」って本気で後悔したわ
東日本は自然災害だとずっと思っていた
だが日本政府の対応と金の流れを辿りようやくイギリスバチカンのヤバさに気づいたときに人工地震テロだった可能性にも目をむけた
また万一に備えて近所の人達と協力するといい。
こういう所に初めて書き込みます。
オレの東日本大震災の体験です。
オレは、生まれも育ちもフカヒレが有名な三陸の町に住んでる。
7年前の3月11日は仕事で営業の外周りだった。
オレは当時23歳で2歳年上の嫁と1歳になったばかりの娘がいた。
いつものように朝の8時に家を出ようとした時、嫁が今日は何か落ち着かないから
仕事気おつけて行ってきてねと見送られた。
今は、その時の落ち着かないと言われたことが、この後オレ達家族に降りかかった震災
のことだったのかと思って仕方がない。
オレは午後2時からお昼休憩をとり、約40分後に車を走らせ、
間もなく、ハンドルを取られる程の激しい揺れに襲われた。
最初は地震だと気付かず、タイヤがパンクしたかと思った。
しかし外を見回すと、至る所の建物の中から人が慌てて飛び出してきている。
その光景を見て、地震だと気づき車から外へ出た。
車に捕まってないと立ってられないほどの激しい揺れが10分以上も物凄い地鳴りと
共に起こっていた。
正直、隕石や核兵器が使われ地球が崩壊するんではないかと恐怖を覚えた程だった。
その後、町の防災無線から6メートルの津波が押し寄せる可能性があるので、
落ち着いて高台へ避難してくださいとのアナウンスが流れた。
自分は海沿いの道路を走っていたので、流石に6メートルは助からない
と思い、高台へ避難しようとしたが、道端でおばあさんが腰を抜かして座っていた。
このままではこのおばあさんが危ないと思い、車へおばあさんを乗せて
一緒に高台へ避難した。
その後、高台から海を見てみると、明らかに沖の方に海水が引いていて
沖から大きな黒波が見えた。
高台の下には地震に戸惑い、避難ままならない人達が沢山いた。
オレは津波を見て、とっさに下の人達を避難呼びかけないといけないと思ってしまい、
高台から下へ駆けてしまった。声がけを始めようとした瞬間、津波が堤防を越え、
逃げ惑う人達と自分を巻き込んだ。
オレは飲み込まれた瞬間で意識を失った。
次に意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。
津波に飲み込まれたが、運良く対岸の岸近くを漂ってたらしく、無事だった人達に
助けてもらっていた。漂っていた際、重油まみれの海が津波火災を起こしていたのだが、
その熱気でオレの喉の食道や口内は火傷を負っていた。
意識を失ったまま助けてもらった人達に介抱してもらい、
震災の翌日に、自衛隊のヘリコプターで大学病院に搬送されて、その後意識を
取り戻した。
怪我の状況によっては、声を出せなくなる可能性があると言われたが、懸命の治療を
してもらい、声を出せるように回復した。
意識を取り戻してからは、家族の安否が気になって仕方がなかった。
嫁の両親は無事だったのだが、嫁と娘が行方不明になっていると連絡を受けて
絶望感でいっぱいだった。
病院のテレビで全国の被災状況が明らかになっていくたびに、胸をえぐられる気持ちに
なっていた。
三日月後、嫁と娘の亡骸が発見された。
家族を守れなかったことが、悔しくて苦しくてしょうがなかった。
家族を失い、気力を失って数年過ごしていたが
嫁の妹に支えられ、気力を取り戻すことができた。
亡くなった嫁と娘の分もしっかり生きていきことを誓い、
一昨年、嫁の妹と結婚した。
さらに、昨年の3月11日に男の子が誕生した。
嫁と娘の命日に生まれてきた息子は、嫁と娘の生まれかわりだとしか思えない。
その息子も間もなく1歳になります。
長々、自分の震災体験を書き込みすみませんでした。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/lifeline/1461081425/
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